わろてんか|寄席って何?当時はどんな所だった?

 

朝ドラ『わろてんか』では、てんと藤吉は寄席の風鳥亭を経営しながら、

大阪に笑いを広めていくことになります。

 

ほとんど素人のふたりですが、寄席をはじめることで興行界へ足

を踏み入れ、後に大阪中に寄席を開くほどの勢力となります。

 

モデルとなっている吉本興業部はわずか10年で

上方の演芸界を席巻しており、てんたちの活躍も楽しみです。

 

ところでてんたちがはじめる当時の「寄席(よせ)」とは、

どのようなものだったのでしょうか?

 

 

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寄席って何?当時はどんな所だった?

 

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寄席とは落語や講談、浪曲や漫才などの演芸を見せる常設の小屋を指し、

江戸中期までは寄場などとも呼ばれていました。

 

当時はすべて自由席で入替制などもなかったことから、基本的には

一度入ってしまえば終演まで好きなだけいることができたことから、

木戸銭の安い寄席の場合はいかに客を回転させるかが重要でした。

 

収容人数は比較的小規模の寄席で100人から200人程度でしたが、

大阪の角座のようなおよそ800人程度収容できる寄席もありました。

 

ただし当時は安全面の法規なども不十分の時代でしたから、

定員の2倍もの人員を詰め込んだりすることも日常茶飯事でした。

 

寄席には格付けがあり、それによって出演者や木戸銭が変わってきます。

 

ちなみに吉本せいと泰三夫婦が最初にはじめた天満天神裏の

第二文藝館という寄席は「端席」と呼ばれるもっとも格の低い

寄席でした。

 

入場料は木戸銭と呼ばれ、他に下足代をとる寄席もありましたが、

基本的にこれらの金銭を支払えば、好きなだけ芸を見ることが

できました。

 

前記の第二文藝館の場合、木戸銭5銭と下足代2銭という激安価格に設定

(ラムネが3銭程度の時代)したので、多い時は定員の2倍から3倍を

詰め込んで、客の回転をよくする様々な工夫も凝らしています。

 

場内にはお茶子と呼ばれる女性の案内人がおり、ことのほか重要な役目を

果たしました。

 

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当時の寄席は椅子席ではなく座布団だったことから、

このお茶子の座布団の敷き方ひとつで詰め込める

人数が変わってくるからです。

 

特に吉本の寄席はどこも低価格路線のため人数を詰め込む

必要がありますので、優秀なお茶子はかなり優遇したようです。

 

興行は昼と夜の1日2回か夜のみというのが当時の主流でした。

 

寄席は全国各地にありましたが、特に多かったのは

大阪と東京、横浜でした。

 

しかし関東の寄席は大正12年(1923年)に発生した関東大震災

被害に遭って、横浜ではその後消滅します。

 

東京の寄席も徐々に減っていき、上野や浅草などの限られた地域で

存続していきます。

 

しかもその上野や浅草の寄席も昭和20年(1945年)の東京大空襲

甚大な被害を被って、大幅に数を減らしています。

 

吉本興業部が席巻していた大阪の寄席は映画館などの登場に

押されながらも長らく健在でしたが、こちらも昭和20年の

大阪大空襲で大きなダメージを受けています。

 

現在の寄席は東京では鈴本演芸場や浅草演芸ホール、新宿末広亭、

池袋演芸場などがあります。

 

大阪では天満天神繁昌亭や動楽亭などがあり、吉本興業も

なんばグランド花月やよしもと漫才劇場を所有していますが、

現在の吉本の寄席は主に漫才に特化しています。

 

このような歴史を辿った寄席ですが、江戸時代から昭和初期にかけては

貴重な庶民の娯楽の場でした。

 

テレビやラジオのない時代は、まさに笑いの発信地でしたから、

その果たした役割は図りなく大きなことがわかります。

 

ドラマでもこのような寄席を経営していく、てんや藤吉の

手腕や奮闘ぶりも注目ですね♪

 

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